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あへぇ風呂

あひゃひょわー

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アニメ評論家には、

正直評論する方は僕とは別次元の生きものなんだろうなって思っている。
よくもまぁ、あんなに素晴らしい言葉をつらつらと言えるものだ。

僕なんか
「うはwおもしれーw」
「うおお。感動したー」
ぐらい。

アニメ評論家には、そんなにアニメ作画は批評するに値しないものと思われているのだろうか?
ttp://anond.hatelabo.jp/20130322232515
「巧いアニメーターを語ろう!」というタイトルのスレッドが2ちゃんねるに立てられたのが2001年の12月20日で、これが事実上の作画スレの記念すべきPart1ということになっているらしい*1。これより以前は、インターネットの掲示板で作画について議論を交わすといったこと自体が考えられないことだったわけで、云ってみれば作画スレの登場は、やや大袈裟に云えばアニメに対する一種の認識論的転回でもあった、と云っても云い過ぎではないだろう*2 これらは、アニメの作画をただ見るだけでなく、批評的に見ることへの可能性を開く端緒にもなったのではないか。現に、沓名健一や山下清悟などの作画スレ上がりのウェブ系アニメーターの、作画スレでの議論を通じて知識を培い昇華した(かどうかは本人にしか知らないだろうが)独自の理論とその応用としての実際の作画技法には、作画に対するある種の批評の姿勢を感じる。実際、山下清悟が松本憲生の作画の精緻な解読から導き出して理論化した「タイムライン系作画」を巡る氏の論は、少なくとも僕の目には批評的に映った*3。それはもはや単なる作画語りではなく、確かに批評の感触があった。アニメをこのような視点から批評できるという事実に目から鱗が落ちる思いだった。もちろん山下は当時の批評界隈、換言すればゼロアカの言説空間とは無縁の人間であり、それが氏の議論を自由なものにもしていた。しかしそれは山下が批評的な感性に先天的に優れていた、換言すれば特異的なケースだったからであって、幸か不幸か批評界隈と作画界隈との断絶は、今に至るまで作画批評の本格的な出現を拒む遠因のひとつになっているように思われる。

ってことはアニメ評論家ってくくりじゃなくて評論している人は皆
ロマンチストってことだね、うん。きっとそう。

内容読んでないけどアニメ評論ってキーワードに飛びついて
適当に書いてみましたw


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